2021年2月8日月曜日

和美との生活の矜持.手仕事専科Vol002

手仕事専科のスタート時にそのコンセプトを考えました。それは、「和美との生活」という言葉にしました。手仕事専科のコンセプトとしたのは、伝統工芸品や民芸品に付いての栃木県立博物館の初代学芸部長だった尾島利男先生の教えがあります。尾島先生にはホテル勤務時代に「下野手仕事会」とのお付き合いや郷土芸能保存会の実演で先生から話を聞いておりました。下野手仕事会の顧問で設立に寄与された尾島利雄先生は、栃木県(下野)の伝統的な工芸と民芸の世界について、また、民俗芸能についても教えをいただきました。尾島先生から”清く貧しく美しく生きた人々”というお言葉を、幾度となくお聴きしてまいりました。

退官記念の尾島先生御夫妻
和=日本の伝統的な製品と生き方である”和”、美=古の生活の中で育まれてきた美術工芸品と生き方の知恵としての”美”を生活の中に活用することを提唱いたします。日本人の色や造形に対する美的感覚は、世界に誇るものであり、作り手も使用者も長い年月を経て育み伝承されてきたものです。100円均一商品に代表されるような安価でそれだけにしか価値を持ち合わせないものが、巷に氾濫しております。それらの世界で育まれたものは、従来以上の価値を生み出すことはありません。職人の反復作業によって生まれ長年培われてきた完成度の高い美しさには、価値があります。他にも日本の伝統産業、伝統文化である、旅館、割烹、着物、易、華道、茶道なども有用性と同時に温さと美しさとを持ち合わせています。

民藝運動は、柳宗悦や河井寛次郎、濱田庄司等によって提唱された生活文化運動です。日本民藝館の創設者であり民藝運動の中心人物でもある柳宗悦は、日本各地の焼き物、染織、漆器、木竹工など、無名の工人の作になる日用雑器、朝鮮王朝時代の美術工芸品、江戸時代の遊行僧・木喰(もくじき)の仏像など、それまでの美術史が正当に評価してこなかった、西洋的な意味でのファインアートでもなく高価な古美術品でもない、無名の職人による民衆的美術工芸の美を発掘し、世に紹介することに努めた。1923年の関東大震災の大被害を契機として京都に居を移した柳は、濱田庄司、河井寛次郎らとともに、いわゆる「民藝運動」を展開した。柳、濱田、河井らは、当時の美術界ではほとんど無視されていた日本各地の日常雑器、日用品など、無名の工人による民衆的工芸品の中に真の美を見出し、これを世に広く紹介する活動に尽力した。運動の中心であった柳は、当時ほとんど研究が進んでおらず、美術品としての評価も定まっていなかった日本各地の民衆的工芸品の調査・収集のため、日本全国を精力的に旅した。柳はこうして収集した工芸品を私有せず広く一般に公開したいと考えていた。当初は帝室博物館(現在の東京国立博物館)に収集品を寄贈しようと考えていたが、寄贈は博物館側から拒否された。京都に10年ほど住んだ後にふたたび東京へ居を移した柳は、実業家大原孫三郎(株式会社クラレ、大原美術館、大原社会問題研究所などの創設者)より経済面の援助を得て、1936年(昭和11年)、東京・駒場の自邸隣に日本民藝館を開設した。木造瓦葺き2階建ての蔵造りを思わせる日本民藝館本館は、第二次世界大戦にも焼け残り、戦後も民藝運動の拠点として地道に活動を継続している。

尾島先生の薫陶や民藝運動の考えから「和美との生活」に伴う工芸品への拘りを矜持としました。それらの工芸品の歴史と伝統的な技能と美しさを推奨し求める方々に愛でて使っていただくこと。価格は職人の方々が手間暇をかけて作るコストとして伴います。安さに価値を置くのではなく、その商品の持つ総体的なポテンシャルに価値を置くことです。それが、私の取扱う商品への拘りとなります。

日下田染織工房
妻胴張善ホラ編(大)
日光下駄山本政史・草履型
黄金べこ(有)荒井工芸所
小砂焼 湯呑面取り鉄赤
藤田製陶所
和美との生活・和美空間」はショッピング>日本の民芸/「下野・会津・津軽 手仕事専科」のブログです。株式会社とぴい企画 080-5089-9227  topykikaku@ybb.ne.jp手仕事専科のブログ ■下野・会津・津軽の歴史街道 ■下野・会津・津軽の四季風景  ■伝統的食品のブログ   ■手仕事の逸品

0 件のコメント:

コメントを投稿